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設計品質と冗長性 [雑感]

正しく評価することの重要性については、これまでのコラムで繰り返し何度も述べてきました。評価は本来、製造と対で行なわれるものであり、設計品質が達成されているかどうかを確認するためのものです。
では、その設計品質の妥当性は、どのように確認すればいいのでしょう?

これは非常に難しい問題です。何故ならば、どんなに優れた製造技術や評価技術を有していたとしても、設計品質が妥当性を欠いていたならば、その結果得られる製品は非常に危ういものになってしまいかねないからです。

この設計品質の妥当性こそが、今世の中で問われている様々な出来事の根幹をなすものではないかと考えます。
原発問題然り、生食肉問題然りです。

設計品質は通常、過去の経験や理論、規則、要求などに基づいて設定されますが、その大前提が正しくなかったということになると、その後どんなに優れた製造・評価技術を駆使したとしても、その行為はほとんど意味を為さないものになるでしょう。

もちろん、設計品質は最初に決定したらそれっきりというものではありません。私たちの認知しうる事象には自ずと限界があり、時間の経過と共に、その限界も変わっていきます。
当初の設計品質がそれでも十分正しいと判断できればいいのですが、そうでない場合には廃棄するか、新たな設計品質を策定して、それに基づいた改造や再評価を行なう必要があります。

通常、そのような改造行為には非常に多くの時間や手間、費用が掛かります。そこで一般的には、ある程度のマージンを、あらかじめ、要求される設計品質に上乗せし、その後の様々な変化に対応できるようにしておきます。

例えば原発の場合ですと、想定する津波の最大高を仮に10mとし、それに1.5倍のマージンを加味して、必要な防潮壁の高さを15mにする、といった感じです。
生食肉の場合であれば、細菌は表面近傍にのみ繁殖するとして、例えば表面部分が確実に除去できる厚さで肉を削ぎ落とす、といった感じでしょうか。

しかし、これらのマージンをどれくらいに設定すればいいかというと、それは非常に難しい問題です。結局のところ、設計品質とそのマージンの区別が明確でないまま、実際に運用されてしまっている事例が少なくないのではないか、とさえ思えてしまいます。

マージンというと、上述したように非常にあやふやな部分を含んでしまうのですが、これを冗長性という言葉に置き換えると、また違った意味合いを持ってきます。
冗長性という言葉を説明するのは難しいのですが、例えばシステムの一部に不具合が生じた場合に備えて、それを補う予備の手段を持たせておく、といった意味合いになります。

最近、この冗長性が大きな成果をもたらした事例がありました。それは、小惑星探査機はやぶさの帰還です。ご存知のように、はやぶさは4基あるイオンエンジンの全てが故障したにも関わらず、故障していない回路同士をつなぎ合わせることで、推進力を取り戻し、無事地球に帰還することができました。

4基のエンジンそれぞれも、互いに冗長な関係にあったのですが、それに加えて各エンジンを結びつける回路を「念のため」に設けておいたところ、最後の最後の手段として、それが役に立ったわけです。この事例は、冗長性の必要性と重要性を、私たちにまざまざと見せつける、格好の成功体験となりました。

そんな別世界の話をされても困る、と思われる方も多いかもしれませんが、実は冗長性は私たちのごく身近で活用され、それなくして現代社会は成り立たない状況にあります。
その一つは、CDやDVDなどのデジタルデバイスや、データ通信やデジタル放送などの情報インフラで用いられる、誤り訂正技術です。

これは、元のデータ列に冗長ビットと呼ばれるデータ列を付加し、並べ替えを行なうことで、データ伝送が正しく行なわれなかった場合でも、元のデータを復元する技術です。
誤り訂正技術には、誤り検出と誤り訂正がありますが、これらを総称して誤り訂正技術と呼ぶことにします。

例えばCDを始めとする光ディスクでは、ディスクの物理的な構造などにより、数万回に1回程度の割合でビットの欠落などが生じますが、若干の冗長ビットを付加することで、その割合を数兆回に1回以下にまで低減することを可能としています。

話は飛躍しますが、私たちが社会を継続していくためには、この冗長性という概念が欠かせないのではないでしょうか。無駄を極限までそぎ落とした社会は、言ってみれば過剰に最適化されたトレーディングシステムのようなものです。それは外乱に弱く、ちょっとでも過去と異なる事象が生じると、破綻してしまうでしょう。

私たちは今まで、無意識の上に冗長性を受け入れてきたのではないかと思います。それは例えば官僚政治を生んだり、多くの無駄を生んだりしてきたことでしょう。
しかし、それはあくまで冗長性の範疇なのではないかと思うようになりました。

それがここ10数年、冗長性を削ぎ落としてきた結果、私たちは大きく疲弊すると共に、回路のつなぎ換えもままならないまま、現在に至っているような気がしてなりません。
これからの社会に必要なのは、光ディスクやデータ通信のように、管理され、計算された冗長性を付加していくことだと思います。

それが将来の活力を生み、新たな発展へとつながっていくのではないでしょうか。極限まで無駄を削ぎ落とした社会は、ひとたび設計と異なる場面に遭遇すると、為すすべもなく崩れ去ってしうでしょう。そんな時に冗長性が存在すれば、回復の糸口を掴むことができます。
80対20の法則は、社会生活を営む生命体にとっては、必然法則なのではないかと考えます。

最後に余談ですが、原発にとって、特に地震対策にとっての冗長性とは何でしょう?より高い防潮壁を設けることでしょうか?
それは単なるマージンです。冗長性という観点で考えれば、もっと違った答えが見えてくるのではないかと思います。

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