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04.10.23 [雑感]

あの日は、小出町(現魚沼市)の実家で過ごしていました。
その数週間前、母に重度の黄疸が発生し、長岡市内の総合病院に検査入院していたのですが、その結果が告げられたのが確か1週間ほど前でした。

診断結果は「胆管癌」。しかも、腹水内にも癌細胞が検出され、症状は末期でした。癌による腫瘍が胆管を圧迫して詰まらせ、その結果、胆汁が腸管内に排出されずに血管内に流れ出し、黄疸が発生したということでした。

胆管の詰まりは、内視鏡手術によるステント挿入で解消されたのですが、癌細胞は放置するしかありませんでした。
担当医から告げられた余命は半年。家族で相談した結果、その後、母にも告知したのですが、その際には余命1年と告げました。

その数年前には、糖尿病性心筋梗塞で入院し、内視鏡による血管拡張手術で一命は取り留めたのですが、心臓の一部に心不全を残したままでした。
その時治療を受け、その後主治医となった先生が勤務する所が、冒頭の長岡市内の総合病院だったわけです。

胆管癌は(当時)有効な抗がん剤がなく、放射線治療も行なえない場所にあるため、外科手術で取り除くしか治療法がなかったのですが、既に腹水内への転移が見られたことや、心不全の影響で外科手術に耐えられないとの判断から、痛みを和らげる緩和療法のみを行なうことになりました。

緩和療法の内容を検討する前に一時退院が認められ、翌日、病院に戻ることを条件に、実家への帰宅が実現することになりました。
その頃父はまだ比較的元気で、一人で電車に乗って母のいる病院に通っており、一時退院の日は近くの駅まで嫁と車で迎えに行った後、一緒に病院に行ったかと思います。

病院で母を迎え、実家に向けて病院を出たのは既に夕方近くでした。途中、ショッピングセンターで夕食の買い物をし、実家に着いたのは既に17時を大きく回っていたように記憶しています。
その後、母と嫁の二人が台所で夕食の支度をし、父と私が居間でくつろいでいた時、それは突然やってきました。

いきなり下から「ドーン」と突き上げられるような衝撃が走ったかと思うと、その直後から、横に揺さぶられるような動きが徐々に大きくなっていきました。
「すぐに治まる」という期待を嘲け笑うかのように、揺れはどんどん大きくなり、台所からは嫁の悲鳴や食器の割れる音が響き渡りました。

その後、揺れが一旦収まったことを確認して台所に行き、母と嫁を居間に引き戻しました。余震はその後も短い間隔で続き、その間、私たちは座布団を頭にかぶりながら、居間で突っ伏したままでした。

電気も止まり、辺りは暗くなってきています。余震が少し収まった頃合いを見て2階に上がり、懐中電灯と乾電池、そして携帯ラジオを持ち出しました。
ラジオで中波放送を拾うことができましたが、地震の報道は行なっているものの、今一つ状況が分かりません。

そんな中、近所の青年団の方が安否確認に訪れました。更に、裏山が崩れる可能性があるので、家から出て山から少し離れた空き地に車を止めて、その中に避難するよう促されました。
とりあえず、家からありったけの毛布と懐中電灯、そしてショッピングセンターで買っていた寿司パックなどを持ち出し、車の中で暖を取りながら夕食を摂りました。

その夜は何度も余震に見舞われ、その度に車がゆさゆさと大きく揺れましたが、何とか無事一晩を過ごすことができました。
全ての明かりが消えていたためか、今までに見たこともないくらいに綺麗な星空だったことを、今でも鮮明に覚えています。

翌日、早速避難場所が提供され、毛布など必要最小限のものを持ち出して避難所に向かいました。街の中心部では倒壊家屋はほとんどなく、避難所も最初はほとんど人がいませんでした。
その時点では、テレビなど見られませんでしたから、地震の被害の全貌など知る由もありません。

ただ、人伝に聞こえてくる情報では、かなり大規模な被害が生じているらしい、ということでした。併せて、あちらこちらで道路が寸断されており、長岡に戻ることはすぐにはできそうにない、ということでした。

本当であれば、すぐにでも母を病院に戻さなければいけないのですが、1日2日でどうこうなる様子はありません。
とりあえず病院に電話を入れ(私のはPHSだったので直ぐにつながりました)、予定通りに戻れそうにない旨を伝えました。

小出町の中心部は幸いにも大きな被害はなく、店舗なども翌日(翌々日だったかもしれません)から営業しているところがありましたので、そこで必要な物資や食材を購入したり、営業しているガソリンスタンドを見つけてガソリンを入れたりしました(満タンにはできませんでしたが)。

その後、近隣の道の駅に出向き、交通情報を確認したところ、小出町から長岡市に通じる通常ルート(国道17号線など)は、全面通行止めで復旧の目処が立たず、このままでは母を病院に戻すのがいつになるか分からない状況でした。

う回路を探すも、主だった国道はほとんど通行止めです。そんな中、北陸自動車道が2日後に暫定開通するという情報を入手しました。
もちろん、小出町から長岡市まで通じているのは関越自動車道であり、復旧の目処は立っていません。しかし、柏崎市まで行くことができれば、そこから長岡市に戻れそうです。

調べてみると、六日町(現南魚沼市)から国道253号線を経由して、十日町市までは行くことができそうです。しかし、そこから柏崎市につながる国道は全滅です。
幸いにも柏崎に親戚がいましたので、電話で確認してみると、一部の県道なら通れそうだということが分かりました。

電話で道順を聞き、それを地図で確認して、ようやく長岡に戻る最短ルートを見つけることができました。
実は最初は、一旦群馬県に出て、そこから長野県を通って上越経由で長岡まで戻るルートも検討しました。しかし、高齢でしかも病身の両親を抱えた状態では、現実的ではありません。

結局、北陸自動車道の開通を待って、柏崎経由で長岡に戻ることにしました。
避難所で二晩を過ごし、その後実家に戻って余震におびえながら一晩を過ごし、地震発生から4日後にようやく小出町を脱出しました。

道路は途中何箇所も片道交互通行となっていましたが、それでも何とか柏崎までたどり着き、その後北陸自動車道に乗って長岡に到着することができました。
小出-長岡間は通常なら1時間も掛からない距離なのですが、この時は大きく迂回したこともあって4時間も掛ってしまいました。

母を病院に無事送り届け、その足で父と一緒に嫁の実家に行って、そこで数日間お世話になりました。
それから数日の間、毎朝、父を母が入院している病院に送り、夕方に連れ帰るまでの間、自宅の後片付けに追われました。

その間、埼玉に住む兄と連絡を取って1カ月ほど両親を預かってもらうことを決め、母の退院日に合わせて長岡まで迎えに来てもらいました(その時には関越自動車道は復旧していました)。
両親を兄に預けて無事送り出すと、私たちも自宅に戻り、ようやく平穏を取り戻すことができました。

私の経験した災害は、現在被災されている方々に比べれば、極めて軽いものだと思います。しかし、それが私の人生観に多少なりとも、変化をもたらしたことは間違いありません。
現在被災されている方々が、いつの日か平穏を取り戻されることを、願ってやみません。


PS.母は翌年の7月、安らかに永眠いたしました。

タグ:地震 中越
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