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10を学んでいくつ知る? [雑感]

私たちが何かを成し遂げる時、全くの無からそれを行うことはできません。最初に、基本的な知識なり経験が存在し、その上に成果があります。
すなわち、私たちはまず学ばなければならないわけです。

社会で生きていくために最低限必要なことは、とにかく覚えるしかありません。小学生が九九を暗記したり、漢字を覚えたりすることは、それに相当します。
この段階では、学んだ以上の成果を出すことはほとんどないでしょう。

すなわち、学んだ範囲を10とすれば、その成果(例えばテストの結果など)は10を越えることはありません。
もちろん、例えば学校で習わない漢字を覚える子供もいるでしょうが、それも学校以外の場で学んでいるに過ぎません。

一方、大学生や社会人になると、学んだ以上の成果を求められるようになります。すなわち、そこには新たな創造が必要になってくるわけです。
そして、その創造が社会に還元され、蓄積されていくことによって、それが学びの場を拡大し、文明を発展させていくことになります。

かつてニュートンが記したとされる、「私が遠くを見通せるとしたら、それは巨人の肩に乗っているからである」という言葉がありますが、これは正に創造の蓄積の恩恵を語っていると考えられます。

現代社会においては、先人たちが築き上げてきた創造の蓄積は、膨大な量になります。そして、それを学びの場にフィードバックするとしても、一個人では到底それらを全て吸収できません。
そこで、学習の細分化が生じることになります。その結果、特定分野に秀でた人材が、育成されやすくなります。

そのような人々が、他の分野との接点を多少なりとも有していれば、それらが有機的に結合することによって、社会全体として大きな創造力を発揮することができるでしょう。
しかし、重要な分野において、他との接点を持つ人材が著しく欠乏していたとしたら、その社会はどうなってしまうのでしょうか?

これはもちろん、自然科学や工業分野に限った話ではありません。社会科学や生活全般においても当て嵌まる話です。
これは全くの妄想ですが、現在の日本社会が置かれた状況は、学びの場の細分化にうまく適応できなくなってしまった結果なのではないかと考えてしまいます。

現代社会において、学ぶべきことは確実に増えているのですが、人間の学習能力は昔と比べてあまり変わらないでしょう。
そうすると、今の人が何かを学ぶために、先人が学んだ何かを切り捨てなければなりません。

何を捨て、何を残すか。この選択を誤ると、取り返しのつかないことになるだろうことは、容易に想像できます。
そして、その結果はじわじわと現れ始めているのかもしれません。その懸念が、前述の妄想ということになります。

これを打開するためには、学ぶべきことを再構築するか、学習能力を高めるか、ということになります。
学習能力を高めることなどできないと思われるかもしれませんが、脳科学の発展によって有効な手法が見つかる、あるいはすでに見つかっているかもしれません。

しかし、これは万人が受け入れられる方法にはならないでしょう。もしもそれを強要できる体制があったとしたら、それは少なくとも民主主義国家ではないだろうと思われます。
そして、そのような体制においては、学習能力の向上が実現できたとしても、学びの細分化の問題はより悲観的な状況になるものと考えます。

結局、私たちが健全な社会発展を継続して行くためには、学びの再構築を最適化する絶え間ない努力が必要なのではないかと考えるわけです。


PS.データ取得更新マクロを改定いたしました。本マクロをご利用中の方は、研究所サイトよりダウンロードを行なってください。
改定内容につきましては、同サイトのコラム・解説ページをご覧ください。

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Kフロー

marbeeさん、はじめまして。
nice!をいただき、ありがとうございます。

by Kフロー (2010-03-15 09:01) 

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