正しく評価する! [雑感]
トレーディングシステムに限らず、正しく評価することは極めて重要です。正しい評価があって初めて、その後の行動を正しく行うことができます。
それでは、「正しい評価」とはいったいどのような評価なのでしょうか?
これは実は不可能問題に近い側面を有しています。すなわち、「正しい評価」というものを定義付けることそのものが、「正しい評価」というものを評価することに他ならないからです。
「正しい評価」を正しく評価するためには、その集合の中に解を見つけるしかありませんが、ゲーデルの不完全性定理を持ち出すまでもなく、それが不可能であることは明らかです。
それでは、「正しい評価」を追及することは無意味なのでしょうか?
けしてそんなことはありません。数学的に無矛盾な「正しい評価」を定義することは不可能かもしれませんが、社会的に有効な「正しい評価」を追及することは、けして無駄なことではありません。
文明の発展は、この「正しい評価」を追及してきた結果によるものと考えます。もちろん、後になって「正しくない評価」であるとされたものが、当時は「正しい評価」として受け入れられる事例も、数多くあります。
しかし、文明の発展に伴い、そのような「正しくない評価」は徐々に是正されていくものだと信じます。
「信じます」と言ったのは、意図的に「正しくない評価」を「正しい評価」として定着させようといった行為が、現代社会においても溢れ返っているからです。
某国の指導部などはその最たるものでしょうし、詐欺師や悪徳商法などもその一例です。そのように、一般的にみてほとんどすべての人たちが「正しくない」と評価する事例であれば、いずれはそれを社会から淘汰していくことも可能でしょう。
しかし、怖いのは大多数の人たちが「正しい」と信じる「正しくない評価」です。もちろん、何をもってそれが「正しくない」と言えるのかについては、後世に委ねるしかありません。
そう言えば、最近誰かがそんなことを言っていましたね(笑)
その件につきましては、あまりはっきりと言うことはいたしませんが、少なくとも「正しくない評価」だと声高に主張する人に対しては、私はその人が「正しい評価」を行っていると思うことはできません。
余談ですが、経済学にはサンクコストという非常に便利な言葉があります。一連の問題の発端となった件について、誰もこの言葉を持ち出さないのは、非常に奇異な感じがします。
私は、いくら投資をしたかが重要なのではなく、投資の結果がどうなったか、そして今後どうなるのかの方が重要だと思うのですが、ちょっと世間からずれているのでしょうか?
酔っ払って公園で裸で騒いだ人を、凶悪犯などと同列であるかのような言葉で評することは、「正しい評価」であるとは思えませんし、そのような評価をする人が行う「評価」を信用することもできません。
一方、数理科学の世界においては、「正しい評価」というものはかなり明確に定義されているのではないかと思います。
そうであるが故に、新しい理論が発見されると、それが正しく評価され、やがて社会に応用されていくわけです。
そんな世界においても、いわゆる偽科学というものが存在します。それが科学者の単なる思い違いや間違いであり、「正しい評価」の結果を受け入れるのであれば、それは少なからず科学の発展に貢献できます。
しかし、中には頑として「正しい評価」を拒む人たちが存在します。彼らが好んで発する共通の言葉は、「地動説だって最初は異端だった」といったようなものです。
それはそれで、もっともな話ではあります。また、彼らが純粋に研究の範疇で行うことであれば、誰も文句を言う必要はありませんし、私はむしろ応援します。
しかし、問題なのは、そのような「正しくない評価」(少なくとも「正しい評価」とは認められない結果)を、あたかも「正しい評価」であるかのように吹聴し、あげくにそれを利用して善良な市民から金品を収奪する輩がいることです。
また、一方で、それまでの「常識」とはかけ離れた結果を「正しくない評価」だと決めつける、自分は「正しい評価」をしていると思い込んでいる人たちもまた、やっかいな存在です。
そのような人たちに共通するのは、自分では「正しい評価」を行わず、過去の同類の結果のみを「正しい評価」だと決めつけ、それを基準に判断することです。
何だか訳の分からない話になってしまいましたが、ともかく「何をさておいても正しく評価することが重要だ」ということを言いたかったわけです。
もちろん、そう主張する私の意見もまた、正しいものである保証は全くないわけです。
それでは、「正しい評価」とはいったいどのような評価なのでしょうか?
これは実は不可能問題に近い側面を有しています。すなわち、「正しい評価」というものを定義付けることそのものが、「正しい評価」というものを評価することに他ならないからです。
「正しい評価」を正しく評価するためには、その集合の中に解を見つけるしかありませんが、ゲーデルの不完全性定理を持ち出すまでもなく、それが不可能であることは明らかです。
それでは、「正しい評価」を追及することは無意味なのでしょうか?
けしてそんなことはありません。数学的に無矛盾な「正しい評価」を定義することは不可能かもしれませんが、社会的に有効な「正しい評価」を追及することは、けして無駄なことではありません。
文明の発展は、この「正しい評価」を追及してきた結果によるものと考えます。もちろん、後になって「正しくない評価」であるとされたものが、当時は「正しい評価」として受け入れられる事例も、数多くあります。
しかし、文明の発展に伴い、そのような「正しくない評価」は徐々に是正されていくものだと信じます。
「信じます」と言ったのは、意図的に「正しくない評価」を「正しい評価」として定着させようといった行為が、現代社会においても溢れ返っているからです。
某国の指導部などはその最たるものでしょうし、詐欺師や悪徳商法などもその一例です。そのように、一般的にみてほとんどすべての人たちが「正しくない」と評価する事例であれば、いずれはそれを社会から淘汰していくことも可能でしょう。
しかし、怖いのは大多数の人たちが「正しい」と信じる「正しくない評価」です。もちろん、何をもってそれが「正しくない」と言えるのかについては、後世に委ねるしかありません。
そう言えば、最近誰かがそんなことを言っていましたね(笑)
その件につきましては、あまりはっきりと言うことはいたしませんが、少なくとも「正しくない評価」だと声高に主張する人に対しては、私はその人が「正しい評価」を行っていると思うことはできません。
余談ですが、経済学にはサンクコストという非常に便利な言葉があります。一連の問題の発端となった件について、誰もこの言葉を持ち出さないのは、非常に奇異な感じがします。
私は、いくら投資をしたかが重要なのではなく、投資の結果がどうなったか、そして今後どうなるのかの方が重要だと思うのですが、ちょっと世間からずれているのでしょうか?
酔っ払って公園で裸で騒いだ人を、凶悪犯などと同列であるかのような言葉で評することは、「正しい評価」であるとは思えませんし、そのような評価をする人が行う「評価」を信用することもできません。
一方、数理科学の世界においては、「正しい評価」というものはかなり明確に定義されているのではないかと思います。
そうであるが故に、新しい理論が発見されると、それが正しく評価され、やがて社会に応用されていくわけです。
そんな世界においても、いわゆる偽科学というものが存在します。それが科学者の単なる思い違いや間違いであり、「正しい評価」の結果を受け入れるのであれば、それは少なからず科学の発展に貢献できます。
しかし、中には頑として「正しい評価」を拒む人たちが存在します。彼らが好んで発する共通の言葉は、「地動説だって最初は異端だった」といったようなものです。
それはそれで、もっともな話ではあります。また、彼らが純粋に研究の範疇で行うことであれば、誰も文句を言う必要はありませんし、私はむしろ応援します。
しかし、問題なのは、そのような「正しくない評価」(少なくとも「正しい評価」とは認められない結果)を、あたかも「正しい評価」であるかのように吹聴し、あげくにそれを利用して善良な市民から金品を収奪する輩がいることです。
また、一方で、それまでの「常識」とはかけ離れた結果を「正しくない評価」だと決めつける、自分は「正しい評価」をしていると思い込んでいる人たちもまた、やっかいな存在です。
そのような人たちに共通するのは、自分では「正しい評価」を行わず、過去の同類の結果のみを「正しい評価」だと決めつけ、それを基準に判断することです。
何だか訳の分からない話になってしまいましたが、ともかく「何をさておいても正しく評価することが重要だ」ということを言いたかったわけです。
もちろん、そう主張する私の意見もまた、正しいものである保証は全くないわけです。
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